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初の近世城郭の登場【広島城址で城郭を散策】

 



地の利を生し広大な地形に古制を残した近世の城郭



城郭は三角州地帯のほぼ中央部にあり、内堀、中堀、外堀と太田川下流を天然の堀として広大な城下町を形成しておりました古くから水の都とも呼ばれ河川、堀などが街並みの形成、広島城を中心に、東西には大阪と博多を結ぶ西国道を、交通と商業に大きな役割を果たしておりました。戦国時代の終焉を迎え、それまでの籠城戦が優先の山城から平城へ、大兵力を収容できる広大な城内、「近世城郭」の登場。での防衛力を八カ国112万石の太守毛利氏の居城としては、当を得た城郭といわれております。

広島城はやがて一大軍事拠点になりました

広島城址には、「ヒロシマ」の決して忘れてはいけない歴史の一頁があります。1945年8月6日、原子爆弾投下により、広島城が強烈な爆風により倒壊しました。さらに悲惨なことは、広島城内の半地下式の地下豪に「中国軍管区司令部防空作戦室」があり、学徒動員された女学校の生徒が働いていて、原爆の犠牲となりました。今もこの「防空作戦室跡」が護国神社のそばにあります。そして、被爆樹木の「ユーカリ」「マルバヤナギ」「クロガネモチ」が城内に今も生き続けています。


ここでのご紹介は「見どころ」のほんの一部です!



二の丸の重要なお役目は


城郭の中で二の丸は本丸に次ぐ重要な郭(くるわ)です。二の丸の建物は表御門、御門橋、平櫓、多聞櫓、太鼓櫓、西側塀があり、それぞれ重要な役目があります。現在の建物は、当時の図面により復元されました。また、本丸などとともに史跡指定され法的に保存の対象になりました。


【表御門】広島城を守る攻守の要の1つであり、二の丸への玄関口です。右側には平櫓も設けられ、広島城への侵入を防ぐ他、有事の際すぐ出撃できるように備えられていました。平櫓から横矢で狙い表御門でくいとめる役割を持っていました。


【二の丸】二の丸は「馬出(うまだし)」としての性格を持っており、これが特徴の一つとなっています。「馬出」とは、郭への入り口である「虎口」を敵の攻撃から守り、味方の兵士の出入りを確保するためのものです。


【多聞櫓】櫓は城を守るため欠かせない建物でした。平櫓が長くなったものが多聞櫓で、本来土塀あるところを長い櫓にすることで防御性を高める目的で造られました。中に、「広島城二の丸の仕掛け」等興味深い説明板、展示物があります。


【太鼓櫓】多聞櫓は太鼓櫓へ続きます。太鼓櫓は特殊な櫓で全国のどのお城にもあったようです。時報のための櫓で太鼓が打ち鳴らされた場所です。藩士の登城の合図のためや、門の開閉などを太鼓や鐘で知らせたようです



中御門は何故か曲がっている

中御門の跡、本丸と二の丸をつなぐ、本丸の入り口にあたる門です。堀に対して曲がっており、敵兵が入ってきたときに防御しやすいような仕掛け(専門的には枡形:ますがたと言う)がなされています。出入口が桝形になっています。お城の出入り口(虎口)の小さな広場を石垣や土塁で囲んだものを「桝形」といいます。まっすぐに進めないようにわざと直角に折れ曲がっているので、敵が攻め込んでいた時に勢いよく前に進めません。この他、中御門の南北の石垣の高さが違うのは、何か意味がありそうです。

【中御門】二の丸から本丸へ続く中御門があった場所です。中御門も二の丸の表御門と同じ櫓門でしたが、より防御力を高めるため、扉に鉄板を打ち付けた「鉄御門(くろがねごもん)」となっていました。被爆により喪失しましたが、壮観な櫓付の御門でした


【中御門の石垣】原子原爆で焼けたため、現在門があった位置の両側の石垣は赤色が目立ちます。二の丸に残る石垣をよく見ると、所々にフジツボやカキ殻が付着している石があります。このような石材から 海沿いの岩場から運んできたと思われる証しが残っています。



広島城内には様々な石垣が


本丸と二の丸を合わせた石垣の石は、全部で31,781 個。自然の石を組み合わせた「野面積み」を採用し、ノミで削った筋状の跡も見られる。 海岸にあった石を使ったので、付着したカキの貝殻跡がくっきり残っている。さらに北側にある石垣には、刻印のようなマークも刻まれていた。これまで214個は確認されているが、誰が何のために刻んだものか不明です。広島城は、築城した毛利輝元、その後の 福島正則と、その時代の石垣が混在しており、様々な石垣からその時代の背景が窺えます。

【壊れた石垣の跡】築城した毛利元就の次に城主の福島正則が、幕府に無断で石垣を補修し、それを咎められて破却した跡などが残されており、大名たちの人柄と人生が浮かび上がるようです。


【石垣の刻印】史跡内において39種類214個の刻印が確認されています。亀居城(大竹市)など福島正則によって築城された城に同様な刻印が見られることから、刻印のある石垣は正則によって築かれたのではないかと考えられています。



広大な城郭と内堀/外堀を散策

太田川河口の三角州に築かれた平城で、堀に河川や水堀を取り入れた縄張が特徴です。広島城は内堀・中堀・外堀の三重の堀と、西側を流れる太田川に囲まれていました。東西南北は約1キロ、広さは90万㎡を誇る大城郭でした。これは、マツダスタジアムの約25倍の広大な広さです。叉、櫓の数も多く城内には約88基もあり国内最多といわれております。櫓は城郭内だけでなく外郭にも築かれ、特に西の太田川沿いに12基の櫓を備えておりました。城内だけでなく城下町も含めて守備網を構築した「総構え」(そうがまえ:城や城下町の外周を堀・石垣などで囲むこと)になっていたそうです。

【中堀】最大幅約20m、外堀は最大幅約35mと、いずれも数十mの幅を確保。さらに、3重の堀の外側には枝分かれした太田川に囲まれており、まさに水によって守られた城郭でした。


【外堀】最西側に天然の要塞である太田川の土手が曲線を描いています。その土手には12基の「二重櫓」が並んでいたとされております。現在はそのうちの一つの櫓台であった櫓跡を見ることができるそうです。










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